ネット新連句「岸本水府・(道頓堀の)」(二)十一

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リレー:[夏石番矢→大西泰世→橋本夢道→住宅顕信→渡辺白泉→三橋敏雄→西東三鬼→金子兜太高柳重信寺山修司北園克衛塚本邦雄→不遜亭希典→西脇順三郎→加藤郁乎→金子光晴宮沢賢治藤沢周平横光利一前田雀郎→岸本水府]

ネット新連句「岸本水府・(道頓堀の)」(二)十一

スタート 平成二十二年五月六日
ゴール  平成二十二年 月 日 
メンバー 小童(B)・宣長(B)・不遜(B)

(一) 正調

一 道頓堀の雨に別れて以来なり      岸本水府 雑
二  つぶやくまえにつぶやいてみる    小童   雑 
三 しがらみの暮らしの中に涼を得て    宣長   夏  
四  貧乏長屋も歌女が鳴くなり      不遜   秋
五 自販機へ釣銭掴み十三夜         小   秋月
六  大根役者が大根を蒔く         宣   秋

(二) 破調

一  鳴かぬなら為す術もなし鳩ポッポ       不  雑
二   めがねをかけめがね探しをり        小  雑
三  ミズナラの樹肌を削りし貴方不可解      宣  雑
四   forget-me-not 勿忘草を 何時までも    不  春 恋
五  花と小父さん何んでそなこと言える訳     小  春 恋
六   さくら貝ひとつ投げキッス         宣  春 恋
七  キャメロンと鳩山メロンとどっち好き     不  夏
八   三角山に出た出た旱(ひでり)月       小  夏 月
九  神よ妖怪変化の国へ帰りたまえ        宣  雑
十   詞人と化して「風街(かぜまち)」賛歌   不  雑
十一 もののふの宿かる此や花の下         小  春 花

十二   春

(三) 乱調

一    春



(讃岐通信)○ 神よ妖怪変化の国へ帰りたまえ

 【魃】魃(ばつ)とは、中国神話に登場する旱魃の神。女神としての「魃」。女神の「魃」は、『山海経』の「大荒北経」に記述がある。もとの名は?(ばつ)。黄帝の娘である。黄帝が蚩尤が戦った際、蚩尤陣営の風雨を司る雨師と風伯に対抗して、体内に大量の熱を蓄えている娘の魃を呼び寄せて対抗した。魃が雨を止めることで無事勝利を掴んだ黄帝であったが、魃は力を使いすぎて天へ帰れなくなっていた。魃の力はそこにいるだけで周囲に旱魃をもたらす。彼女を処刑することもできないため、やむなく黄帝は彼女を赤水河の北方の係昆山へ幽閉した。しかし魃は時折中原へやってきて旱魃を起こすので、人々は「神よ、北へ帰りたまえ」と言って魃を帰すのだという。一説によれば、本来の名の「?」は美女の意味だが、人間に害をなすようになってからは、邪悪の意味をこめて部首の女を鬼に変えられて「魃」の名が用いられ、これが「旱魃」の語源になったともいう。その他の「魃」。『三才図会』より「神魃」『山海経』以降に書かれた中国の文献には、旱魃にまつわる以下のような獣の記述がある。『本草綱目』や前漢初期の書『神異経』によれば、南方に「魃」というものがおり、身長2尺から3尺(40から60センチメートル)、頭の上に目があり、風のように走り、これが現れると大旱魃になるが、厠に投げ込むと死んでしまうという。『三才図会』に記述のある「神魃」は、魑魅に類する人面獣身の獣で、手と足が一つずつしかなく、剛山という山に多くおり、これのいるところには雨が降らないという。隋時代の研究書『文字指帰』には同様、「早魃」という獣の居場所には雨が降らないとある。これらは日本の江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも、「魃(ひでりがみ)」と題して引用されている。鳥山石燕による妖怪画集『今昔画図続百鬼』では「魃(ひでりがみ)」と題し、上記の特徴を総合し、剛山に魃が住み、人面獣身、手と足が一つずつ、風のように早く走り、居場所には雨が降らないと述べられている。魃とは別に、『山海経』には「神チ」(チは光鬼で1字)という、手足が一つずつの人面の獣が剛山に住むとあるが、獣としての魃の特徴は、この神チが混同されたものとする説もある。http://ja.wikipedia.org/wiki


(下野通信)○ 詞人と化して「風街(かぜまち)」賛歌
 
 日本の音楽業界をリードしてきた松本隆さんが作詞活動40周年を迎えた。今月、企画CDの発売や記念コンサートが開かれるが、タイトルに共通するのが「風街(かぜまち)」の文字だ。独自の言語感覚で歌謡史に残る歌を送り出してきた“詞人”が、音楽人生の中で常に心に留め置いてきた言葉という。「風街」的な世界はどのように形成され、歌詞を通じて伝えられたのか。その思いと活動の軌跡をたどる。(堀晃和)http://sankei.jp.msn.com/entertainments/music/100511/msc1005110413000-n1.htm
http://www.google.co.jp/imglanding?q=%E9%A2%A8%E8%A1%97&imgurl=http://blog-imgs-26.fc2.com/s/c/a/scaningoflife/ikonta072.jpg&imgrefurl=http://scaningoflife.blog105.fc2.com/blog-date-200808.html&usg=__mpPvvTBoWavF0lKcWawdt3y_rGY=&h=2333&w=3528&sz=179&hl=ja&itbs=1&tbnid=Zgcx-MjrsTgvLM:&tbnh=99&tbnw=150&prev=/images%3Fq%3D%25E9%25A2%25A8%25E8%25A1%2597%26start%3D40%26hl%3Dja%26sa%3DN%26gbv%3D2%26ndsp%3D20%26tbs%3Disch:1&start=40&sa=N&gbv=2&ndsp=20&tbs=isch:1#tbnid=Zgcx-MjrsTgvLM&start=44


(湘南通信)○ もののふの宿かる此や花の下 

 首実検として平泉から送られてきた義経の首を祀った白旗神社が藤沢にある。ここで珍しい催し?があった。平泉にある義経の胴体霊と、藤沢にある御首霊を再会させようという試みの儀式であった。『吾妻鏡』によると、源義経は、兄頼朝の勘気をうけ奥州は平泉衣川館で自害したことになっている。伝えるところによると、その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られ、腰越の浦に着き和田義盛梶原景時によって首実検が行われた。そのとき弁慶の首も一緒におくられ、首実検がなされた夜の間に、二つの首は此の神社まで飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、寒川神社の別社を白旗神社と改め義経公を御祭神とした。また弁慶の首は別に八王子社として祀られた。首が飛ぶというのは別に珍しい話ではない。平将門もそうであった。また別の伝えるところによると、和田義盛梶原景時によって首実検が行われた後、捨てられたのは腰越の海であった。それが潮にのり境川を上り、白旗神社近くに流れ着いたという。この白旗神社のすぐそばの住宅地の中に、その首を洗ったという首洗いの井戸が今も残っている。流れ着いた首は洗い清められ、里人により葬られたとも伝わる。この神社の境内に、芭蕉の句碑が建っている。「草臥て宿かる此や藤の花」句碑には文化二年とある。芭蕉が何処でこの句を詠んだか怪しいところだが、この場所で詠んだとして句意が面白いのである。「もののふの宿かる此や藤の花」