「イザベラ・バードの日本紀行」

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J-WAVE 25th ANNIVERSARY SPECIAL
UNBEATEN TRACKS IN JAPAN~イザベラ・バード日本紀
放送日時:2013年10月1日(火)~10月11日(金)23:45~24:00【全9回】
企画/構成/演出/ナビゲーター:三谷幸喜
朗読:松たか子 音楽:久石譲
原作:「イザベラ・バード日本紀行」イザベラ・バード著、時岡敬子訳(講談社学術文庫)  

           
      https://www.youtube.com/watch?v=0K2WyIQS-w8





 『三流の維新一流の江戸』『明治維新という過ち』の著者原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけ、「日本人だけが知らないペリーとイザベラ・バードの正体」に気づいている。

 下田で混浴を見聞したペリーは、これを指して日本人の道徳性の欠如、堕落と断定した。『東洋紀行』で知られるクライトナーも、公衆道徳の欠如であると強く非難した。一方で、駐日スイス領事ルドルフ・リンダウになると見方が異なる。非難を急ぎ過ぎる危険性を説き、「育てられてきた社会の約束を何一つ犯していない個人を、恥知らず者呼ばわりすべきではない」と主張する。『スイス領事の見た幕末日本』新人物往来社より。
 また、英国女性イザベラ・バードは明治十一(1878)年に来日し、三ヵ月に亘って東北、北海道を旅し『日本奥地紀行』を著したが、やはり農婦や車夫の半裸姿に驚き、戸惑っている。しかし、彼女は、そういう庶民の勤勉さや礼儀正しさも同時に正しく観察している。つまるところ、彼ら西洋人に文明的優越感があり、それに由来する余裕ともいうべき心理や所謂“上から目線”ともいうべき見方、態度が共通して存在したことは紛れもないが、ペリーとバードの違いは普遍的な知性の差であるとみることもできるだろう。

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 しかしイザベラ・バードはこうも言っています。
 「日本人は醜くて、朝鮮人は立派な顔たちと体格をしていた

 李氏朝鮮安倍晋太郎倭人竹下登の比較から体格に関してはそうでしょう。
 しかしキツネ目はむしろ李氏朝鮮系です。グリコ事件で監視カメラに映っていたアレです。このイザベラ・バードの紀行観察眼に普遍的な知性を見ることは出来ません。


 イザベラ・バードは明治11年(1878)に来日し、三ヵ月に亘って東北、北海道を旅して『日本奥地紀行』を著したが、朝鮮には、1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて、四度も訪れている。彼女の紀行は宣教のための斥候ではないですか? たとえば当地の人種的考察、その偵察活動です。斥候は奥地奥地へと分け入るもの、これを「奥の細道」と言うのですが、イザベラ・バードも例外ではない。しかも英国人は、グラバーがいて生麦事件があり、日本について屈折した感情があるのです。当時の英国人の日本人に対する言動は斜交いに聞く必要があります。
 近世の政治や歴史はそう難しく考えることはないのです。誰が何のため銭を出しやらせているのかということ、米国には米国の英国には英国の事情と思惑で動いているということです。ところでイザベラ・バードの場合、その使命は何だったかということに尽きるのです。惑わされてはなりません。女ひしり、蛮人のなか世界に飛び出し、危険をおかしてまで何をあさっていたかということです。ボクはこの紀行文にそれを見るのですが・・・・。


 最後にイザベラさんへの蛇足のつもりでアリス・ベーコンさんの日本人への感想を添えておきます。

日本人の中で長年暮らした外国人は、美の基準が気付かぬうちに変わってしまい、小さくて穏やかで控えめで優美な日本女性の中に置くと、自分の同胞の女性が優美さに欠け、荒々しく攻撃的で不様に見えるようになる

                (アリス・ベーコン)

 




                                      (吾人)