歌仙「木の芽時」(ウ二)
歌仙「木の芽時」(ウ二)
スタート 平成二十四年三月十九日
ゴール 平成二十四年三月 日
メンバー 吾人(B)・不遜(B)・於花女(B)
オ
発句 木の芽時吉本隆明失せにけり 不遜 春
脇 海市というなかれ蜃気楼 吾人 春
第三 うららかに船腹の白汚れゐて 於花女 春
四 すべってころんで子らははしゃぎぬ 不遜 雑
五 ことさらに疎開の村の月まろし 吾人 秋月
六 ぴかぴか光る新米おむすび 於花女 秋
ウ
一 母さんの夜鍋ぽかぽか思い出す 不遜 秋
二 捲れてスルメみるみる転向 吾人 雑
三
【吉本隆明の転向論】
転向問題については、1958年、吉本隆明が「転向論」(1958.11月「現代批評1号」に掲載「芸術的抵抗と挫折」1959.2月未来社に収録された)を書いて、新しい展開を与えました。彼は日本のマルクス主義を日本的な近代主義の一つととらえ、転向の発生理由を次のように解析した。「転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考転換をさしている」。つまり、マルクス主義をも含む日本的近代主義が「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなった」ことから、大衆から孤立し、土着の思想と有効に対決し得ず、その結果発生した思考変換が転向の要因であると見抜いた。その視点から見れば、戦争中の獄中非転向もまた近代主義の一形態だったことになります。彼の視点は転向論だけでなく、日本の近代に関する新しい見方を作り出すほどの大きな影響をもたらしました。また彼の視点に立てば、野間宏の『暗い絵』の学生運動家たちはいずれも大衆から孤立していたこと、主人公の自己完成というテーマもその裏側に大衆嫌悪・大衆蔑視を潜めた、孤立した自我の願望にすぎなかったことは明らかでしょう。吉本隆明は、更に云う。「日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが私の転向論のアクシスである。生きて生虜の耻しめをうけず、という思想が徹底してたたきこまれた軍国主義下では、名もない庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あるいは捕虜を耻辱としたのは)、連帯意識があるとき人間がいかに強くなりえ孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ」と指摘している。この吉本氏の見方は、本多秋五氏の「転向文学論」の当局の弾圧要因説の空漠を撃っている。「わたしは弾圧と転向とは区別しなければならないとおもうし、内発的な意志がなければ、どのような見解もつくりあげることはできない、とかんがえるから、佐野、鍋山の声明書発表の外的条件と、そこにもりこまれた見解とは、区別しうるものだ、という見地をとりたい」としている。吉本氏は、1959年(昭和34年)「過去についての自註」(1959.2月「初期ノート」)で、「わたしの思想の方法」として次のように述べているのも注目される。「すべての思想体験の経路は、どんなつまらぬものでも、捨てるものでも秘匿 すべきものでもない。それは包括され、止揚されるべきものとして存在する。もし、わたしに思想の方法があるとすれば、世のイデオローグたちが、体験的思想を捨てたり、秘匿したりすることで現実的『立場』を得たと信じているのにたいし、わたしが、それを捨てずに包括してきた、ということのなかにある。 それは、必然的に世のイデオローグたちの思想的投機と、わたしの思想的寄与とを、あるばあいには無限遠点に遠ざけ、あるばあいには至近距離にちかずける。かれらは、『立場』によって揺れうごき、わたしは、現実によってのみ揺れうごく。わたしが、とにかく無二の時代的な思想の根拠をじぶんのなかに感ずるとき、かれらは死滅した『立場』の名にかわる。かれらがその『立場』を強調するとき、わたしは単独者に視える。しかし、勿論、わたしのほうが無形の組織者であり、無形の多数者であり、確乎たる『現実』そのものである」。
↓
今読むと、どっか陳腐で無理がある。なら小林秀雄の、釈明にもならない自然災害の方がよほど的を得てると思うが? 言葉少ないだけに・・・・。
1937年11月、小林は『改造』誌上で『戦争について』と呼ばれるエッセイを発表し、その中で「天皇の臣民としての義務が何よりも優先する」と主張し、日中戦争に反対する人々を強い調子で批判した。小林によれば、戦争とは自然災害のようなもので、人間によってコントロールできないものである。そのため、台風をやりすごすのと同じように戦争は正しいか正しくないかにかかわらず勝たねばならないというのであった(『ウィキペディア(Wikipedia)』内の記事「小林秀雄(批評家)」より引用)。
↓
ベートーヴェン「エロイカ」をフルトヴエングラーで聴きながら。
http://www.youtube.com/watch?v=UBq6zM81JXI&feature=results_video&playnext=1&list=PL4E9E103645BF822F
スタート 平成二十四年三月十九日
ゴール 平成二十四年三月 日
メンバー 吾人(B)・不遜(B)・於花女(B)
オ
発句 木の芽時吉本隆明失せにけり 不遜 春
脇 海市というなかれ蜃気楼 吾人 春
第三 うららかに船腹の白汚れゐて 於花女 春
四 すべってころんで子らははしゃぎぬ 不遜 雑
五 ことさらに疎開の村の月まろし 吾人 秋月
六 ぴかぴか光る新米おむすび 於花女 秋
ウ
一 母さんの夜鍋ぽかぽか思い出す 不遜 秋
二 捲れてスルメみるみる転向 吾人 雑
三
【吉本隆明の転向論】
転向問題については、1958年、吉本隆明が「転向論」(1958.11月「現代批評1号」に掲載「芸術的抵抗と挫折」1959.2月未来社に収録された)を書いて、新しい展開を与えました。彼は日本のマルクス主義を日本的な近代主義の一つととらえ、転向の発生理由を次のように解析した。「転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考転換をさしている」。つまり、マルクス主義をも含む日本的近代主義が「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなった」ことから、大衆から孤立し、土着の思想と有効に対決し得ず、その結果発生した思考変換が転向の要因であると見抜いた。その視点から見れば、戦争中の獄中非転向もまた近代主義の一形態だったことになります。彼の視点は転向論だけでなく、日本の近代に関する新しい見方を作り出すほどの大きな影響をもたらしました。また彼の視点に立てば、野間宏の『暗い絵』の学生運動家たちはいずれも大衆から孤立していたこと、主人公の自己完成というテーマもその裏側に大衆嫌悪・大衆蔑視を潜めた、孤立した自我の願望にすぎなかったことは明らかでしょう。吉本隆明は、更に云う。「日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが私の転向論のアクシスである。生きて生虜の耻しめをうけず、という思想が徹底してたたきこまれた軍国主義下では、名もない庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あるいは捕虜を耻辱としたのは)、連帯意識があるとき人間がいかに強くなりえ孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ」と指摘している。この吉本氏の見方は、本多秋五氏の「転向文学論」の当局の弾圧要因説の空漠を撃っている。「わたしは弾圧と転向とは区別しなければならないとおもうし、内発的な意志がなければ、どのような見解もつくりあげることはできない、とかんがえるから、佐野、鍋山の声明書発表の外的条件と、そこにもりこまれた見解とは、区別しうるものだ、という見地をとりたい」としている。吉本氏は、1959年(昭和34年)「過去についての自註」(1959.2月「初期ノート」)で、「わたしの思想の方法」として次のように述べているのも注目される。「すべての思想体験の経路は、どんなつまらぬものでも、捨てるものでも秘匿 すべきものでもない。それは包括され、止揚されるべきものとして存在する。もし、わたしに思想の方法があるとすれば、世のイデオローグたちが、体験的思想を捨てたり、秘匿したりすることで現実的『立場』を得たと信じているのにたいし、わたしが、それを捨てずに包括してきた、ということのなかにある。 それは、必然的に世のイデオローグたちの思想的投機と、わたしの思想的寄与とを、あるばあいには無限遠点に遠ざけ、あるばあいには至近距離にちかずける。かれらは、『立場』によって揺れうごき、わたしは、現実によってのみ揺れうごく。わたしが、とにかく無二の時代的な思想の根拠をじぶんのなかに感ずるとき、かれらは死滅した『立場』の名にかわる。かれらがその『立場』を強調するとき、わたしは単独者に視える。しかし、勿論、わたしのほうが無形の組織者であり、無形の多数者であり、確乎たる『現実』そのものである」。
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今読むと、どっか陳腐で無理がある。なら小林秀雄の、釈明にもならない自然災害の方がよほど的を得てると思うが? 言葉少ないだけに・・・・。
1937年11月、小林は『改造』誌上で『戦争について』と呼ばれるエッセイを発表し、その中で「天皇の臣民としての義務が何よりも優先する」と主張し、日中戦争に反対する人々を強い調子で批判した。小林によれば、戦争とは自然災害のようなもので、人間によってコントロールできないものである。そのため、台風をやりすごすのと同じように戦争は正しいか正しくないかにかかわらず勝たねばならないというのであった(『ウィキペディア(Wikipedia)』内の記事「小林秀雄(批評家)」より引用)。
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ベートーヴェン「エロイカ」をフルトヴエングラーで聴きながら。
http://www.youtube.com/watch?v=UBq6zM81JXI&feature=results_video&playnext=1&list=PL4E9E103645BF822F