返信
前 略
先日は、唐突な言葉を頂戴し驚きながらも感謝している。
しかしあれは、兪見子の慰めになっても辰男の餞別にはなりそうもない。
手を一振りしては片付けられないものを、我々は互いに今も負っているからだ。気づかねばならぬところに気づかぬもどかしさも残しているからだ。そして実際のところ、我々だって我々の関係を十分理解してはいなかったと気づくのだ。その辺のところを、お前は少しばかり誤解してはいないか。
お前の言うとおり、辰男はもう我々の前に姿をさらすことはないだろう。
それは俺にもわかる。しかしそんな感情を辰男がどこまで自覚していたろうか。俺は辰男がお前の中で、これからもずっと巷と同じ噂のままでいることに歯がゆさをおぼえる。しかしそれもやむを得ないこと、辰男の妄想など誰が信じるものか。しかしこれだけは確っきりしている。辰男の妄想が偶然にも兪見子の死を予言してしまったという事実、例えそれが偶然の一致であろうとも、この事実だけは認めざるをえない。
俺の中では、あくまで辰男と兪見子は双子であった。
それは一つの体に二つの顔のあるようなもので、それが互い逆向きに付いている。そのため二人は互いを見合うことがない。そこで互いの顔を同時に写す鏡が必要だった。その鏡が俺だった。少なくとも辰男はそう考えた。我々三人の関係はそういった奇妙な関係でもあったということだ。
兪見子の無表情は月影そのものだった。
気怠く虚ろで、あるがままに変幻する。ボードレールは、月には闇夜を彩るだけの明るさと幻想にいざなうだけの甘味な暗さを具えていると言った。何と妖しいまでに優しい曖昧であることか。しかしボードレールは、そうした月だからポジチブの感情は働かないとは言わなかった。
悲しいかな、辰男の背後にはいつも夕焼けが覗いていた。
夕焼けは太陽の黄昏だ。月の幽艶のかわりに自らの残光を貪る悲惨があった。おかげで空は充血し腫れあがる。しかも太陽は、曖昧より明晰を、虚より実を求めた。そのため辰男の妄想は何がなんでも白日の下に辻褄を合わせねばならなかった。これが悲劇を生んだのだ。
しかし妄想は悲劇を予測出来たが、辰男が悲劇を予想した訳ではない。ここが極めて重要だ。妄想はいつの間にか辰男の手から離れて一人歩きしだしたのだ。何を隠そう、これが真相だ。
さらば友よ、友よ永遠なれ
凶月凶日
辰男を共に友とする友より
草 々
妻には黙っていたが、実はこの風変わりな手紙は私の書いたものだ。
高校生だった私が同級生へあてて書き送ったもので、それがどういう訳か、二十年経って再び私のもとへ送り返されてきたのだった。
それも差出人不明として。
事情があって、私は高校時代の記憶から逃れるようにして上京した。それからというもの北陸へは一度も帰ることはなかった。当然当時との交流も絶えていた。なのに差出人はよく私の住所が分かったものだ。私はロッキングチエアに揺られながら、そんなことに思いをめぐらせていた。
まず新一の顔が浮かんだ。そのうち辰男がやってきた。その傍らに兪見子を思い浮かべるのだが、なぜか彼女の面影だけは輪郭を成さない。兪見子の顔も判然としないのは私に忘却を強いる何かのせいだ。
しかし今もはっきり憶えていることがある。このたった二枚を書きしたためるのに費やした苦渋と丸めた便箋の山、そしてその投函を二、三日ためらった記憶だ。
(小説「ヴォカリーズ」一章)
先日は、唐突な言葉を頂戴し驚きながらも感謝している。
しかしあれは、兪見子の慰めになっても辰男の餞別にはなりそうもない。
手を一振りしては片付けられないものを、我々は互いに今も負っているからだ。気づかねばならぬところに気づかぬもどかしさも残しているからだ。そして実際のところ、我々だって我々の関係を十分理解してはいなかったと気づくのだ。その辺のところを、お前は少しばかり誤解してはいないか。
お前の言うとおり、辰男はもう我々の前に姿をさらすことはないだろう。
それは俺にもわかる。しかしそんな感情を辰男がどこまで自覚していたろうか。俺は辰男がお前の中で、これからもずっと巷と同じ噂のままでいることに歯がゆさをおぼえる。しかしそれもやむを得ないこと、辰男の妄想など誰が信じるものか。しかしこれだけは確っきりしている。辰男の妄想が偶然にも兪見子の死を予言してしまったという事実、例えそれが偶然の一致であろうとも、この事実だけは認めざるをえない。
俺の中では、あくまで辰男と兪見子は双子であった。
それは一つの体に二つの顔のあるようなもので、それが互い逆向きに付いている。そのため二人は互いを見合うことがない。そこで互いの顔を同時に写す鏡が必要だった。その鏡が俺だった。少なくとも辰男はそう考えた。我々三人の関係はそういった奇妙な関係でもあったということだ。
兪見子の無表情は月影そのものだった。
気怠く虚ろで、あるがままに変幻する。ボードレールは、月には闇夜を彩るだけの明るさと幻想にいざなうだけの甘味な暗さを具えていると言った。何と妖しいまでに優しい曖昧であることか。しかしボードレールは、そうした月だからポジチブの感情は働かないとは言わなかった。
悲しいかな、辰男の背後にはいつも夕焼けが覗いていた。
夕焼けは太陽の黄昏だ。月の幽艶のかわりに自らの残光を貪る悲惨があった。おかげで空は充血し腫れあがる。しかも太陽は、曖昧より明晰を、虚より実を求めた。そのため辰男の妄想は何がなんでも白日の下に辻褄を合わせねばならなかった。これが悲劇を生んだのだ。
しかし妄想は悲劇を予測出来たが、辰男が悲劇を予想した訳ではない。ここが極めて重要だ。妄想はいつの間にか辰男の手から離れて一人歩きしだしたのだ。何を隠そう、これが真相だ。
さらば友よ、友よ永遠なれ
凶月凶日
辰男を共に友とする友より
草 々
妻には黙っていたが、実はこの風変わりな手紙は私の書いたものだ。
高校生だった私が同級生へあてて書き送ったもので、それがどういう訳か、二十年経って再び私のもとへ送り返されてきたのだった。
それも差出人不明として。
事情があって、私は高校時代の記憶から逃れるようにして上京した。それからというもの北陸へは一度も帰ることはなかった。当然当時との交流も絶えていた。なのに差出人はよく私の住所が分かったものだ。私はロッキングチエアに揺られながら、そんなことに思いをめぐらせていた。
まず新一の顔が浮かんだ。そのうち辰男がやってきた。その傍らに兪見子を思い浮かべるのだが、なぜか彼女の面影だけは輪郭を成さない。兪見子の顔も判然としないのは私に忘却を強いる何かのせいだ。
しかし今もはっきり憶えていることがある。このたった二枚を書きしたためるのに費やした苦渋と丸めた便箋の山、そしてその投函を二、三日ためらった記憶だ。
(小説「ヴォカリーズ」一章)